超人気の観光スポット 金華山と長良川
あのベストセラー作家も大絶賛!

『岐阻路ノ駅河渡長柄川鵜飼船』
(渓斎英和泉画江戸時代後期)
(岐阜市歴史博物館蔵)木曽街道(中山道)六十九次シリーズの河渡宿に名所として鵜飼が描かれています。

江戸時代後期になると、鵜飼は全国有数の観光名所として広く知れ渡るようになりました。
それはある人気俳人のひとことがきっかけでした。 貞享5年(1688)、松尾芭蕉が岐阜にいる知り合いの招きで稲葉山(金華山)のふもとで鵜飼を見物しました。このとき芭蕉は、金華山と長良川というロケーションと、幻想的な篝火に照らされ浮かぶ鵜飼の素晴らしさに感動し、この句をうたいました。

おもしろうて やがて悲しき 鵜飼かな

この句の大ヒットにより、長良川の鵜飼が一躍全国に知れ渡り、多くの人が岐阜を訪れて鵜飼を見物するようになりました。

『長良川鮎鮨図』(明治時代)
(岐阜市歴史博物館蔵)御鮨所での作業。上団ではマスクをした御鮨元が飯と一緒にアユを漬け込んでいます。

やがて船に柱を立てて屋根をのせた屋形船が登場し、お酒やお弁当を用意して鵜飼を楽しむようになりました。
ただし、現在のように観覧船の前で鵜匠が鵜飼を見せるのではなく、鵜飼を行っている時に船を出し、周りから勝手に見物するスタイルだったようです。
鵜飼は月が没してから昇る前に行われ、漁をする区間は毎回変えるのが通例だったため、ベストポイントの『鏡岩』で毎日見られたわけでもなく、時間も一定ではありませんでした。
当時の鵜飼見物は、なかなかたいへんなものだったと思われます。

幕末から明治維新
激動の時代を経て宮内庁式部職に

長良川の3ヵ所に御料場を設置し禁漁とする内容の訓令(左)と御料場でアユを捕獲するときに刑事する札。有栖川宮家進献御用漁制札(右)。

幕府によって手厚く保護されていた長良川鵜飼ですが、明治維新とともに鵜匠の特権も廃止され、厳しい時代を迎えることになります。
鵜舟の通行や鵜の活動に障害となる川漁も増え、アユをはじめとする魚類の乱獲により、魚の数も減ってきました。そんな折、明治11年(1878)、明治天皇が諸国訪問で岐阜に立ち寄られたとき、付き添いの岩倉具視らと鵜飼を見物し、鮎を賞味されたといいます。これが契機となって、長良川の鵜飼は再びクローズアップされることになります。明治23年(1890)には、鵜匠の地位の確保と伝統を継承し、さらに自然保護を目的とした禁漁区の「御料場(ごりょうば)lが設置されました。それと同時に、鵜匠は宮内庁の管轄下に身をおく「宮内庁式部職(くないちょうしきぶしょく)」という肩書きが与えられ、御料鵜飼が行われるようになったのです。  現在の御料鵜飼は、長良川鵜飼(岐阜市古津地区)の鵜匠6人と、小瀬(おぜ)鵜飼(関市立花地区)の鵜匠3人によって行われています。年に8回行われる御料鵜飼で獲れたアユは、宮内庁に納められています。また、古津地区では駐日大使夫妻等を招待して行われており、日本の伝統文化のPRの一助ともなっています。

ワンダフォー!!
世界の喜劇王が認めた鵜匠の技

市営観覧船絵はがき(昭和初期)
写真は50人が乗れる当時最大の観覧船。昭和6年頃の例では5人乗りの小舟からあり、総数62艘を運行していました。

長良川鵜飼の素晴らしさに魅せられたのは、日本人だけではありません。海外からのお客さんの目にも、鵜匠の技は感動的に映りました。世界の喜劇王・チャールズ・チャップリンもそのひとりです。4回来日したチャップリンは、そのうち昭和11年と36年の二度にわたり、鵜飼を鑑賞しました。そのとき、鵜匠のことをアーティストとほめたたえ、「ワンダフォー!ワンダフォー!」と連呼したとか。日本の伝統を受け継ぐ古典絵巻は、世界のエンターティナーの心をとらえて離さなかったようです。